Last SAMURAI 「今古有神奉志士」

昨日、久しぶりで唐突に行ったお店の方と、話がとことん盛り上がってしまいました。その中で『ラスト・サムライ』の映画に触れてから、この映画のことが頭からずっと離れません。

ということで、この『ラスト・サムライ』について再度、考えを整理したことを書いておくことにします。

話題に上がった経緯、いきさつとしては、共通の知人Mさんのお父さんが極めて頑固で、息子や家族のみならず、周りの人の話にも耳を傾けるタイプでは全くないので、ほんと困ったなぁ~、という話の流れからなのです。まあ、よくある話といえば、ほんとよくある話。でも本件の強度はなかなか大変です。

パワハラ親、モラハラ親(親の部分は、夫でも上司でも可)の類ではありますが、この問題って、反省 ⇒ 解決 となることがあまりなく、【とにかく離れる】がベストソリューションかもしれません。

専門家ではありませんし、解決法はさておき、です。

絶対に負けを認めることなどできない

強固にこのマインドを持つ輩は、最初から話を跳ね返すことしか考えてませんので、コミュニケーションが根本的に不可能です。そのように、絶対に考えを変える気がない人がいたら、「こんなところにも”武士”がいる」と思ったり、それで困っている人がいたら「そんなところにも”武士”がいるんですね~」と話たりしてるんですが、

実は、武士についてもそうですけど、武士道とか、いろいろ”道”のつくものについてよく知りもしないのに、武士を揶揄してしまうことは、実はどことなく後ろめたくもあったんです。一貫した態度というものに美しさを感じるし、すべての武士や武士道的な態度を一緒に揶揄するかのような物言いはあまりにも乱暴すぎる、、、

揶揄する割には、唇に寒さを感じている、、、です. 

映画『ラストサムライ』最大のメッセージ

で、ここから本題。『ラストサムライ』について です。

この映画、実は、3回ぐらいしか見てない割には、かなり何度も何度も思い出したり、考えたりして来ました。

中学生の時に遠足で行った 鶴林寺 がロケに使われたり、三宮のバーで隣に座った方が映画に出ていた役者さんだったり、ってなんとなく身近にあるんです。このハリウッド映画。(その役者さんにはニュージーランドロケの話をいろいろ聞きました)

昨日、お店の方としゃべったとき、トム・クルーズの刀に書かれている言葉の意味がとても深いんだ、ということを話していたのですが、うる覚えの記憶で話しをしたし、確認しておきたくて、今日また自分のマインドマップで過去のメモを見直して考えていたのですが、ようやくあの映画のメッセージが整理できた気がします。

今古有神奉志士

映画のシーンをスマホで撮影

ネタバレ というか、映画の主題と思われるところを書いてしまうので、読みたくない人は読み進めないように。

刀にはこのように書いてます。

今古有神奉志士・・・ 今も古(むかし)も神にserve(奉)する志士がいる

英語のセリフでは

I belong to the worrier in whom old ways have joined the new.

日本語字幕は「我は古きと新しきに和をもたらせし者の刀なり」となってます。まあいいでしょう。

江戸末期、渡辺謙の演じる勝元(ラストサムライ)がトム様に新時代へのバトンとしてこの刀を託す映画。トム様が古い時代を新しい時代に前進させることのできる志士である。これが刀に記されたメッセージであり映画の主題。

古いやり方(武士道)しかできない己であることを知っている勝元は、殺される(負けを認めてしまう)より戦ったうえでどうにか自死までたどり着き、perfectと言って死んでいく(そこでは静かに桜が散っている(武士の美学の完成))。トム様は勝元の価値/態度をUnderstandした上で長くserve(帯同)し勝元とともに戦い、勝元の自死にまでserve(介助)し、さらに新しい時代にも世の中(明治天皇)にserveしつつ生きようとする。トム様は時代をまたいでserve(前進)する強い志士、獅子(赤い虎)である。

映画を見ないと”赤い虎”は完全に?かと思いますが、あの映画のなかでなかなか鮮やかな描写で好きでした。

現代にも古いやり方を変えられないたくさんの”ラストサムライ”がいます。その”サムライ品質”には肯定しがたい点がいろいろあるのですが、新しい時代への過渡期にある今現在、この映画のメッセージにみるべきところは大いにあると感じる次第です。

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